規律正しい朝が来る。
やはり朝はいい。全ての始まりであり夜を破りし正義の象徴だ。
毎度早寝早起きを心得とする長政は、今日もまたいつも通りの気持ち良さを噛み締めながら帯を結い、髪を束ねた。
そこへ、市がそっとやって来る。相変わらず足音も気配すらもない。
いや、まあ、私にはわかるから全く問題はないが。
「長政様…おはよう…」
「うむ。市、朝から陰欝な声を出すな、朝は不浄なき明の刻だ。もっと大きく自分を出せ。」
「うん、おはよう、…」
「まだまだ、おはよう!こうだ!」
「おはよう」
「そうだな、良い事にしておこう。さっさと朝餉にするぞ」
「はい、長政様」
今日も朝から市と会話が出来る。顔色も良さそうで何よりだ。
低血圧な市は婚姻当初、朝など今にも倒れそうに真っ青にして意識も飛びがちなのが常であったが、最近ようやくそれも治まって来た。
規律正しく生活させていたお陰であろう。朝は起き、夜は寝る。人間、自律神経が伴わねばそれだけで終わりだ。
市は一体どんな生活をしていたやら知らないが、多分悪の刻を中心に生活していたに違いない。
と、なると兄者や蘭丸もか…。
うーん、やはり悪の刻に生きる者達は自分の意思に関係なく、ひねくれた意識に捕われてしまうようだな、もっと規律正しい生活を推奨して行かねば。
「長政様?」
向かい合わせに座り、朝餉を食していると、他愛もない会話の合間に市が不思議そうな声で名を呼んで来た。
じっと見つめる視線に、思わず赤くなり顔を背ける。
「な、なんだ?下らん事なら聞かんぞっ」
さっきまで散々下らんことでも話し合っていたのだが…、市はそれについては何も言わず、ただもじもじと膝を寄せている。
そのたおやかな仕種にどきりとする自分をなんとか律し、市の小さい声を聞き漏らすまいと耳を近付けてみた。
「早く言わないか」
「あのね…、いつも思ってた事があって…」
なんと、市が私に何かを提案しようとしている。
珍しい、いつも私が黙らせてしまうから市から何か意見することなど滅多にない。
…はっ、私のせいか。
「なんだ、言ってみろ」
「…怒らない…?」
「言わないとわからないだろう」
しまった、ついぴしゃりとした口調になる。市は小さくすくんで困った顔をした。
慌てて取り繕おうとも思ったが、自分の性格からしてまた強い口調になると判断して、一度落ち着く事にした。
一呼吸置いて、目を反らす。
「お、怒るかどうかはだな、私が決める事ではない、貴様の…お前の正義が決める事だ。だから私は怒らん、怒らないから言ってみろ。」
微妙に訳がわからない言葉だが、怒らないところを強調したお陰で市は安心したようだ。よかった。
大して米の減っていない茶碗に箸を置いて、市は少し上目がちに私を見る。
また真っ赤になるところだったが、必死に堪えた。しかも今は顔を反らせるような場面ではない。
堪えろ長政!顔の充血など悪だ!
「あのね、市、時々前田さんの所でお茶会してるの…」
お茶会?ああ、市が週一くらいのペースで行っている井戸端会議という奴のことか。
毎回、全裸に近い男のいる城などに市を行かすのは正直かなり心ぱ…悪を正す正義の心が許さないのだが!
しかも聞けば市が呼び出す黒いもののお陰で毎度数名負傷しているらしい。…まあ他軍勢などどうでもいいが、市に楽しみを与えてくれる礼や詫びはきちんとしなくてはならないからな、今度なにか名産でも持たせるとしよう。
「でね…謙信さんのかすがに聞かれた事があるの」
「忍だな」
「うん、忍といえば…小太郎さんはあまり来ないけど、幸村さんの佐助も来てるよ」
「忍が二人も?影は悪だというのに私の市と同じ茶を…。」
こほんと咳をして、市に向き直る。
まあ忍が皆悪な訳でもなかろう、特に真田のとこの忍など忍かどうかすら怪しい。
「それでなんと言われたのだ」
「お前のところは忍を雇わないのか、って…」
実に想像の範囲内の言葉だが、長政はくらりとした。
「長政様は影の技を使うから嫌いで、だから雇わないのかなって言ったらね、忍は必要だから長政様の安全のために雇った方が良いんじゃないかって…市、気になって…」
市が言うには、こういった食事の際、もしくは就寝する際、また情報をいち早く掴む…など、忍はもはや一殿に一人は必要な時代だと言うのに浅井のとこは未だ雇おうとしない。阿呆か、それとも馬鹿かと上杉のに言われたということらしい。
どっちもけなし言葉ではないかァァ!!
冗談ではない、忍などおらずとも我が浅井の正義は鉄壁だ。
「市、長政様が心配で…前にお食事になにか入れられて死にかけたよね…?」
うっ…!
飲もうとしたお茶を軽く吹き出してしまった。
そうだ、そういえば…なかなか死線をさ迷うこともないといえばなくないかもしれないが…。
「大体!毒を盛るなどモラルが欠如した悪がやる所業なのだ、夜に寝込みを襲うのも然別!そんな悪をわざわざ雇うような真似など私はせん!」
「でも…」
「ええい無駄口を…!」
湯飲みをたたき付け、はっとした。市が泣いている…いい市が泣いている!?
「長政様が危険な目に合うのはもう嫌なの…市のせいで雇えないなら謝るから…雇おう、雇おうよ長政様…」
か細い肩が震えながら私に訴えかけて来ている。
いつもならば、ええいめそめそするなと一喝してしまうところだが、今は自分を殴り付け踏み止まった。我ながら大分と自制が効くようになったと思う、いやそういう場合ではない。
「い、市」
「ごめんなさい…ごめんなさい、わがまま言ってごめんなさい…」
「ば、馬鹿者!」
わがままな訳があるか、市は私を心配してくれているのだ。
確かに、…確かに!毎度死にかけているのは事実。毎度忍がいればと五本槍の連中に言われ続けているのも事実。
これが、今こそが…転機、なのか…?
「しかし…!」
私の正義はどうなる?私の信念は、明に誓って暗き者は雇わぬと決めた私の信念は。
「だ、だが!」
ならば何故市が泣くのだ?
それは己が弱く、不甲斐ないからに他ならぬではないか!?
信念なんだと言いながらその信念を貫き通すために必要な力を、私が持っていないから市を不安にさせてしまう。なんたる事だ!
「長政様…?」
真に私が成すべき事とは何か。
忍を雇うのは簡単だ、だが私の信念を裏切る事など出来ぬ。
ならば、答えは一つしかない。
「市!」
勢いで立ち上がり、市の肩に手を乗せると、不思議そうな表情とかち合った。かすかに首を傾げる。
それに私なりの笑みを見せ、断言してやる。
「安心しろ市!私が」
忍の極意を我が物とし、二度と影の所業になど倒れぬようになれば良いのだ!!
長政の一大決心は、市の心に響き渡り、ついでに城中にも響き渡ったという。
主のスケールのデカすぎる宣誓に、食事中の全員が米つぶを吹いたことは言うまでもない。
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