暗闇の中に揺らめく小さな明かりに、ぼんやりとだが人の顔が浮かんでいる。
「それは、まつめがまだ14、5のことでありました…」
ごくりと息を飲む音が隣から聞こえ、自分もまた何か失態をしないようにと居住まいを正した。
「その日はお祭りのある前日で、私もお手伝いしていたのです、ね犬千代様」
「おう!まつの差し入れ上手かったぞ!」
予想だにしない振りに、場が明るくなってホッとする。
だがまつ姉ちゃんがわざわざ話の腰を折るような振りをするだろうかと考えて…
見遣ると、笑みもなにも浮かべてはいない無表情がそこにあった。
普段叱っている最中でさえ笑顔絶やさない様子を見慣れている分、それだけで充分怖い。しかも申し訳程度な蝋燭の明かりは、まつ姉の膝の上に置かれている。
しばらく楽しげに話していたトシだったが、ふと、なにかを思い出したかのように笑いを止めてこちらを見回した。
「だけどなぁ、あの日の夜からお祭りの朝まで某が何をどうしてたのか記憶がないんだよな、某なにしてたっけ?まつ」
はい、なるほど。流石まつ姉、上質なトドメだね!
まつ姉はトシの質問に、わずか笑っただけで答えず、トシも首を傾げたままでまあいいかと元の場所に腰を下ろしてしまった。
突如訪れる静寂。
あああ羨ましい!
目に見えない恐怖とか関係ないトシがホント羨ましい!
まつの口元が、クスリと緩んだ。
その射抜くようでいて優しげな視線は、明らかに俺に向けられている。
「きゃあああああ!!」
その夜、慶次は前田家恒例納涼百物語に続けて行われた肝試しの最中、どこかへ飛び出して消えたと言う。
ちなみに驚かす役は勿論まつであり、一体どれほどの恐怖演出をされたのであろうか。それはもう泣きながら走っていた…という情報もあったのだった。
「もう嫌だ!俺ぜってー夏の間家に帰らねえ!」
「それはいいがどうしてウチなんだい?」
「だって会社閉まってたんだもん!」
突然やって来た真夜中の来訪者に、半兵衛は深いため息をついたが、慶次はとっくに上がりこんでベットに潜り込んだ後だった。
なんて素早い…いや家人の承諾なしに勝手に上がり込みベットまで占領する当たり
「僕は君が図太い神経の持ち主だと思っていたんだけどね」
だが一方で幽霊に怯える細い神経を持つ奴だとは。にわかに信じがたい話だ。
「いやああ止めて!来るううきっと来るううぅ!」
布団を無理矢理ひっぺがしてやろうとするも、必死に抵抗されて余計な体力を使うだけなので断念した。
全くこれだから…
「……慶次くん」
「何ですか」
姿は見えないが、ベットの上に丸くなる慶次の横に腰をかけた。
流石に大人二人分の重さにギシリとスプリングが軋む音がしたが、どうでもいい事だ。
それよりも、そんな些細な音にまで怯えたように反応する彼が面白い。
「良い事を教えてあげるよ」
甘く囁くように、顔を近付け、どこだかはわからないが…手を多分脇腹辺りに添えてやると、今度は声もなく身を竦めた。
「ここ、規模の割に入居者が少ないと思わないかい?」
「…た、たた高いからだろ」
「そうでもないさ、無駄な贅沢はしないタチでね」
「…じゃあなん…でだよ」
「簡単なことだよ、…ここは、出るからね」
アッー!!
明け方近くに響いた声なき悲鳴は、半兵衛を珍しく笑い転げさせたという。
当の本人は、あまりの事態に気絶したとか。
とりあえず、半兵衛は笑わせてくれたお礼に追い出すことはしなかったそうな。
旦那の朝は早い。
俺はいつものように、旦那と親方様(こっちが正式。お館様ってのは愛称に近い)の早朝ジョギングの合間を縫ってゴミ出しやら何やらを済ませていた。
昨日はジメッとした嫌な夜だったが、明けた朝は幾分にも清々しい。
大きく伸びをすると、犬と鳥の声に混じって誰かの言い合うような声が聞こえてきた。
おいおい、朝っぱらから喧嘩か?
「だーから、笑うなっつの半兵衛!」
「だってアレは何度思い出しても、ふふふ」
なんて早々に立ち去ろうとした俺の足は突如止まる。
いやいや待てよ、なんて偶然ていうかなんて奇遇てゆうか、てゆうか?
「竹中サンに風来坊じゃないの…、なんて珍しいツーショット」
てゆうかなんで一緒に玄関から出て来てんの?
ああ!泊めてもらったんだな、そうだよな普通に考えて、そういやあの人フラフラしてるらしいし、でもあの竹中サンがまさか風来坊を家に上げるなんて、一体二人の間になにがあったんだろう。
出ていけばいいものを、俺は何故かその場の雰囲気で物影に隠れてしまった。
幸い人通りはなく、二人がこちらに気付く気配もない。
「いやでもほんとに」
「…なんだよ」
竹中サンが見たことのないような笑みを浮かべて慶次君を見遣る。
え、何、その笑が…。
「昨夜は楽しませてもらったよ、慶次君」
うわああ爆弾発言んん!!
楽しませてもらったってナニ!?いや何!ウノかオセロか恋バナか?!な、訳ないですよね。
有り得ん佐助、ここにいちゃダメだここにいちゃダメだ!
「おっ…!まえが俺をさんざ弄んだんだろうが!楽しませた覚えなんてない!」
「嫌だな、だいたい君が僕の家に勝手に上がり込んだのが事の発端だろ?自業自得さ」
「それにしたってもっと優しくしてくれてもいいだろうよ…、あっ!それによく考えたら普通にちゃんと入ってたぞ、この嘘つきめ!」
「嘘つきとは心外だな、僕は入ってないと言った訳じゃない」
「そんな事言ったらなぁ…」
やけに響く二人の話し声は、だんだんと朝の町並みに消えて行った。
「佐助?」
俺?
俺はと言えばそれからしばらく身動きも取れず。
「姿が見えんから心配したぞ。どうした、具合でも悪いのか?」
旦那に声をかけてもらうまで、ずーっと衝撃的な場面を目撃してしまった、こう、世紀末的な感情に捕われていた訳で。
むしろ抜けてたね、腰が。
「熱はないようだが、立てるか?」
「旦那ァ…」
旦那のあっつい手に腕を掴まれ、俺は精一杯目眩を堪える。
引っ張られたが、勢い余って道着の胸元あたりに額をぶつける形になってしまった。
「世の中には色んな恋愛があるよね…」
「なんだなんだ、どうした!?」
「いやホント」
走ってきたせいか、元の体温が高いのか、洗剤の匂いのする旦那の襟元は暖かい。
洗濯してるのは自分なんだけど…。
どこか見当違いなことを考えてから、とりあえず俺は、それ以降あの二人について何も考えないことを己に深く誓ったのであった。
半兵衛と慶次の疑惑事件から数日。
佐助の様子は、なんとはなしにおかしいままであった。
原因はわかってる。事件直後に交わした女の子達との会話のせいだ。
洗濯物を干しながら、澄んで晴れ渡る空を仰ぎため息をつく。
…いや、いやいや、ないない、ないって、そんな訳ないってマジで。
大体俺はどっちかってとお袋さんみたいなポジションでしょ、って言ったのまつサンだし。
そう、深く考えるだけムダっていうか、いちいち深読みしてちゃ今の世の中生きてけないっての。ねえ。
「何がだ?」
ガターン!
よほど考え込んでいたためか突如背後に現れた幸村に、佐助は随分と派手に驚いてしまった。
驚いた拍子に物干し竿にぶつかり、危うく倒しそうになる。
それをなんだなんだと支えたのは当の旦那であった。
俺はといえば、情けないことに心臓の音で鼓膜が破れそうで、ただ固まるしかない。
ななんて情けない…っつか旦那が気配消してた訳じゃなくて、俺が気付かなかっただけっていうのがもう…!
「どうした佐助、最近おかしいぞ」
「なっ」
慌ててひっくり返りそうになった声を無理矢理元に戻す。
「なに言ってんの!俺、普通だよ至って!フツー!」
多少失敗したが。
旦那は眉間に皺を寄せてこっちを見ている。あああ目が、目が見れない。
「熱があるならそう言え」
「ないよないない!熱なんてな…」
これまた無理矢理笑って洗濯物に向き直ろうとすると、何故か視界が真っ暗になった。
アレ!?なんで!?
理由はすぐにわかったけど、それを認めたらすごいなんか色々なものが全部ダメになる!いや!ダメなのは違うね俺かな!
俺だね!!
「んもー聞いてくださいませ!ウチの犬千代様ったらバッタに夢中になるあまりお勤めをすっぽかしてしまったのでございますよ」
「あら可愛いじゃない。そういえばこの前上総之介様が、お前少し痩せたか?ですって、もう私嬉しくて嬉しくて」
「兄様お優しくて羨ましいな…お市…頑張って作ったご飯、長政様はじめて美味しいって…」
「よかったな。ああいう面倒なタイプは時間かけるしかないだろ」
「かすがんとこはどだ?」
「わたしは相変わらずだ。ああ謙信様、思い出すだけで謙信様ァ…」
「ふふ、いつきちゃんのところはいかがにございます?」
「おらんとこか?相変わらず平和だべ、しばらくは学級崩壊もおこんねだろ」
「まあ違いまする、蘭丸君のことですよ」
「ハァ!?なんでいきなりアイツの名が出んだべさ!?まっだくもって関係ねえべさ!だべさ!!」
「あらあらはいはい」
「むっきー!大体アイツとは喧嘩ばっがしてっしウマが合わねえし!この前消しゴム忘れたっから貸してやったら花壇に落としたとか言って花付きで帰って来たべさ、今度消しゴム借りたらぜってえ同じことしてやる!」
「あらまああらまあ」
「はは、ほほえましいねー」
「ん、おめさん」
「え、何?俺?」
「赤い兄ちゃんの連れだべ、こんなとこで何してんだ?」
「いや俺はちょっと買い物にね、皆さんお揃いでなにしてんのかなーと、かすがも久しぶりー」
「ああ、えーと…久しいな」
「…ちょ、かすがさん?」
「何だ、えーと」
「もしかして今思い出そうとして失敗しなかったかな!?つか俺の名前忘れたかな!かな!」
「うるさいなえーと」
「思い出してよ!仮にも同じ施設出なんだからさァ!数少ない友人だったろ!」
「…………いや私は友人たくさんいたが」
「言葉の暴力ー!!」
「まあまあ、かすがん奴は興味ないっつと、とっことん興味ねからな。よっぽどどうでもいい存在だっただけだべ、気にすんな兄ちゃん!」
「フォローどころかトドメにしかなってねえ!」
女の子集団との会合はそれが初めてだった。
かすがと面と向かって話すのも初めてだった訳だが、事実は衝撃より強烈。普っ通にショックだったよ。
かつて憧れた友人の真実としては、俺、眼中にもなかった訳ね。普通にショックだよ。
…と思っていたんだが。
「落ち着きあそばせ武田さんのところの佐助君」
「流石まつさん人付合いの鏡だね」
「まつめが知らぬ情報などありませぬ」
「………おい、まつ」
「はい?」
「佐助と言ったか、今。もしやフルネームは猿佐助」
「猿飛ね」
「猿飛…お前、猿飛か?」
「そうですよ、思い出してくれた?」
「当時の猿飛といえばいちいちネガティブでいちいち悲観的でいちいち斜に構えてた見てるだけで苛々する男だろ」
「良い思い出ねえー!」
「なのに今のお前はどうだ、こんなに変わってちゃわからぬのも無理はない。」
「え」
どきん。
何故かそこで脈絡もなく心臓が跳ねた。
え、なんで?
「そ、っかなぁ…?」
「人相からして違うな、前は死人だったが、今はふざけた顔付きだ」
「良くなったイメージないんですけど!?」
「もう死ぬしか道がないほど救いようのないカスだったお前が」
「言い過ぎィ!なんか涙出て来た俺!」
「あそこにいる者はみな似ている。消極的、積極的問わず誰かに救いを求めている。救われたいの救われたくないの自分の意思と関係なくな。」
どきん。
ちょ、また。鳩尾の辺りまで。
「ならばお前は救われたか」
ずき、と胸が裂るような痛みを感じたところまでは覚えている。けどそれからの記憶が曖昧で、上手く思い出せない。
頭の中が真っ白になったとも、ごちゃごちゃになったとも言えるだろう。
一瞬の内に、俺の頭の中はある人のことでいっぱいになってしまった。
嘘だ、と叫びたくなる気持ちが溢れ、多分、俺はその場から逃げ出したのだ。
そうだよ、確かに俺は救われた。
きっとかすがの言う通り、救われたくないって顔をして生きながら、救われたいって思ってた。
旦那に救われた時はまだ自覚もなくて救われたなんて思いもせずに文句だけを言う俺に、旦那は笑って居場所をくれたから、今日までだらだらと甘え続けて来た訳だけど。
それは旦那が、俺が救われたなんて思ってもいなくて、勝手に連れ出した責任をとれと思い続けていると、理解しているからなのだ。
ならば、もうそんな戒めや義務感が必要なくなったとすれば?
俺なりに恩を返したいと身の回りの世話役なり何だって引き受けた。本当は。
でも恩を返したいからと言うだけじゃ、きっと旦那は側にいることを断るだろう。
俺の自由を優先するに決まってる。
前向きに生きようとする俺の行く手を阻む訳にいかないなんて言うかもしんない。
前向きに生きるためには、旦那の側じゃないとダメなんだなんて都合の良いこと言える訳がない。
やだな、ホント、どうしよう。
旦那の掌が額、つか目から上から離れた。
不機嫌に顔をしかめるのが気配だけでわかる。
「少し熱いぞ、今日はもう休め」
有無を言わさぬ口調が、ついでに俺の首根っこを捕まえた。
「いだたたた!ちょ、待てって旦那!」
「待たん」
う、旦那機嫌悪い…。
いつも寛容すぎるほど太い神経が、今日はどうも狭すぎるほどに細い。
言われたままおとなしく床に着くと、旦那は少し安心したように隣にいるから何かあれば呼べと言って部屋を後にした。
横になりながら、音を殺して閉められたドアを見やる。
なんだかなぁ…。
どうしてこういう運びになるのか。
発端はなんだったのか。
人のせいにしようとすればいくらでも出来る、そもそも運がないの始まりは件の二人からだろう。
二番目が女の子達、んでトドメが言うまでもなくかすがさん。
「だけどまァたどり着いた結論がコレってんだから」
もはや誰のせいでもない。
言うなれば転機であり、曲がり角分かれ道選択肢、色々と呼び名はあれど、どれも似たようなもの。
「…あー!ダメ!無理!これだからシリアスは嫌いなんだよォ!」
布団を被り妙な小声でのたうちまわる。
あんまりやると旦那がきそうで、衝動をため息にすり変えた。
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